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     新潟中越地震
〜激震地よりの生還〜
2004.10.24 現地レポート  川西経済サミット団員  東 孝司  

2004年10月23日、第4回全国川西経済サミットに参加する、我が兵庫県川西経済サミット団の一行は、川西市商工会長の舩岡正夫氏を団長に総勢16名が大阪空港発JAL2241便(08:45発)にて新潟入りしました。
 私たち一行は、昼食もそこそこにして、川西市商工会の先発チームが頑張る特産品即売会場へ激励を兼ねた見学に参りました。午後1:30分より新潟県川西町の商工会館にて開会式の後、2つの分科会に別れ、今後のあり方について有意義な意見交換がなされ、会議も順調に運び、後は恒例の歓迎レセプションと交流会、そして翌朝には大切なサミット宣言並びに各市町が、特産品即売会の本番を迎える予定でした。
 しかし、第二部の始まる直前の午後5時56分、全国の川西から集まる人で賑わうレセプション会場の「千手温泉」大広間に突然、激震が走りました。建物が左右に激しく数回揺れ、天井の照明は上下左右に躍り上がり、マッチ箱がへしゃげる様な、積み木崩しの様な現象で、今まさに会場は倒壊寸前の有様に人々はただ呆然と立ち竦んだり、座り込んだりでした。そんな中でも人々は意外に冷静に振舞い、誰一人騒がず、むやみに外に飛び出さず、ただただ天井を見上げておりました。
 数分後に、同じくらい大きな激震がまた我々を襲いました。会場受付付近の大きなガラスに亀裂が走り、場内は騒然となり、「ここは危ない!外へ!」の舩岡団長の声が暗闇のなかで響きわたりました。舩岡団長の冷静沈着な指示のもとに、我々は余震のおさまる瞬間を待ち、屋外へ慌てず、迅速に行動し、100数名が屋外へ無事移動することができました。
 阪神淡路大震災を経験した我々でしたが、それ以上の激震だったと思います。しかも屋外の広場に出た我々に追い討ちをかけるように激しい余震が何度も襲い、地響きが轟き、我々の乗ったバスを激しく上下左右に揺さぶり、屋外でも立っていられない程でした。このような激しい余震は、朝まで繰り返し起こり、身の毛もよだつ恐怖を散々味わいました。
 そんな余震が続き、不安と恐怖を感じるなかでも、深夜に広場に各県からサミットに参加している人々が自然と集まり、恐怖と不安を紛らわすかのように、言葉を交わし、笑い声がわき、笑顔で明るい井戸端会議が始まり、心温まる交流がありました。
 長くて不安な真っ暗闇で、情報が何も届かないなか夜を明かし、日が昇った時、その凄まじい激震の爪痕に愕然としました。本当に気の毒なのは、我々ではなく、本会のホスト番の当地新潟県十日町市川西町の役員の皆様方でありました。川西町は、震源地の小千谷市の隣町であり、第4回全国川西サミットの会場は、滅茶苦茶になり、継続不可能となりました。付近の家屋や宴会会場及び商工会館は倒壊し、道路は地割れし、ガス・水道・電気も止まり、電話も不通となり、役員の方々の会社もご自宅も大きな被害を蒙られたようです。にもかかわらず、昨晩我々が恐怖の夜を明かしたマイクロバスに、炊き出し、毛布などの差し入れをしてくださり、ホストとして我々のことを最優先に考えてくださり、誰一人帰らず、朝までお気遣いくださいました。そんなご厚意に敬服し、山形・奈良・兵庫から集まったサミットの参加者一同は、大変感動した次第です。

 新潟の人々のこれから予想される大変なご苦労に思いを巡らし、後ろ髪を引かれる思いで、24日の早朝、川西町を後にしました。わずかな情報を基に、いたるところで道路が寸断された道を目の当たりにしながら、空港への帰路を断念し、長野県へ迂回ルートで、帰路につきました。そして24日、午後4時05分、JR川西池田に到着、柴生市長はじめ、多数の市職員のお出迎えをいただき、一同ホッと胸をなでおろしました。留守を預かる皆様方には、大変ご心配をお掛けしました。
 リーダーたる者の第一の資質は危機に際し、自己犠牲を払い、人に、公に尽くす事ができるか否かだと感じました。新潟県川西町の人々の感動的な行動や冷静沈着な判断で危機を回避し、全員無事に生還へと導かれた舩岡団長並びに事務局スタッフには、心より感謝申し上げる次第です。本当に有難うございました。

 川西久代商店会
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